小説家の温又柔がTwitterをやめた理由が深い

さまざまなDをテーマに過去と向き合い、未来を志向するためのムーブメント・D2021のラジオ「D radio」。

 

その中で、ASIANKUNG-FU GENERATIONのボーカルの後藤正文・哲学研究者の永井玲衣・小説家の温又柔(おん・ゆうじゅう)が「言葉が通じるってなんだろう?」をテーマにお話ししました。

 

言葉が通じるとは?

 

ポッドキャスト「D radio」
 

その内容をざっくりまとめて、感想を残します。

 

 

「速度ばかりでつらい」Twitterをやめた温又柔さん

 

『真ん中の子どもたち(※)』のような小説を書くと、「日本人にはそんなこと全然わかんないよ」って言われることもある。同じ内容なのに、なんで“通じる人”と“通じない人”がいるんだろう…言語の間でディスタンスがある。

 

 

台湾人の母と日本人の父の間に生まれ、日本で育った琴子は、中国語を勉強するため上海へ留学するが……。国境や言語を越えて自らのアイデンティティを探し求める若者の姿を描く青春小説

 

日本語って誰のものなんだろう?国籍は台湾でも、同じ文化と言語なのに、伝わらないってどういうことなんだろう?

 

人間って国籍に関係なく、言葉を使う時点で、他の人とそっくりそのまま分かち合うって難しい。言葉の不完全さに直感している人は、国籍に関係なく私の小説に共感してくれる人が多い。

 

感情に比べて、言葉の方がのろま。ものすごく思っている友達にどれだけ言葉を尽くしても届かないことがある。そういう絶望があるから書きたい。メロディーの方が自分の感情を表しているときがある。“名前のない感情”と向き合うと、言葉の不完全さを意識しちゃう。

 

言葉はのろまだけどディープなところまで連れていってくれる。不完全だけど、完全に近いところまで接点を探るのは、書くことでしか得られない作業・喜び。その点、Twitterは速度ばかりを求められる。

 

Twitterは読む時間が不足してて、言葉になってない部分・行間には思いを馳せられない。噛まずに飲んで、味わいもせずに「マズい」って言ってる感じ。

 

Twitterの消化できない感じがツラい。政治で何か問題があったときに発言するには便利だけど、雑な言葉・瞬発的な怒りでは対話の土壌が整わない。それにすごくつかれちゃった。

 

 

 

 

Twitterは“聞けないこと”がすごくしんどい。温さんの文章は「わかる」って思うけどわかるわけがなくて、わかるまでつかまえたくなる奥行きのある文章。Twitterって、何も聞こえてこなくなっちゃう。断片で早いから?情報が細切れで見えなくなるから?

 

Twitterの本質的に「さえずり・つぶやき」だからじゃない?対話を目的に作られてなくて、それぞれがボソッとつぶやくためのツールだから。温さんの小説は、読み手のことも信頼しているし、さえずりやつぶやきではない。

 

奥行きを感じてもらえる読者を信頼したい。奥行きが本来の言葉の意味・対話の形なのに、Twitterはそこが全部奪われている気がする。Twitterは、変に賞賛されるのもキツかった。「そうだそうだ!」と味方する声も雑になっていくというか。そんなふうに言葉が雑になっていくことに自分が加担することが耐えられなくて、「Twitterできないな」って思った。言葉の雑さって、思考の雑さに直結すると思う。

そもそも昔から二項対立が苦手で、赤組と白組に分かれて“建前上のライバル”と戦うみたいなことが苦手だった。その根を見ると「男か女か」「日本人か台湾人か」みたいな分断につながるような喋り方をする人が苦手で、そんな人からは逃げ出したくなるような気の弱い人間なんです……

 

 

 

 

哲学対話のなかには、話された言葉だけでなくて言い淀みとか膝をゆらす、唇を噛む……とかも含めたい。それは書かれた言葉でも可能。温さんの文章のように肌触り・体温があるものは、なんであるんだろう?

 

私の場合は「YES」か「NO」しかない世界が怖すぎて、「その他」が気になっちゃう性質。違う可能性を常に思い描いているから、読み手にとって“その通り”じゃない部分にも連れていく回路をつくりたい。

 

世の中がクイズ形式を好きすぎるのが違和感。ある設問に「絶対答えがある」みたいな感じ。インタビューを受けるときも「なんか答えがある」みたいな聞かれ方で、「作品のメッセージが2行の太字でまとまるんじゃないか?」みたいな質問のされ方をする。詩世界は自分でも捕まえられてないところもあって、受けた人のリアクションで完成するところもあるから……

 

今の日本って、正しい答えを出さなきゃいけない風潮が強いかも。「間違えたくない」が顔に書いてある人がいたら、「おかしなこと言ったって、それもあなたの断片だよ」って言ったりする。みんな、間違ってOKだった時間を経験させられないで大人になっちゃってる気がする。「間違い」「正解」の二項対立になっている。

 

「間違ったらレッドカードで一発退場」みたいな感じある。人って複雑なのに、「お前は何人だ」みたいなのも違和感。中島岳志さんの『思いがけず利他(※)』を読んだら、ヒンディー語を使う人たちは「お前ヒンディー語うまいな」って言わなくて「お前の中にヒンディー語がとどまっている」っていう言い方をするらしい。喜びも怒りもそう。「自分はただの入れものでしかなくて、感情や言語がとどまっているだけ」って考えると、言葉って誰のものでもないんだと腑に落ちる。

 

 

東京工業大学で「利他プロジェクト」を立ち上げ、『利他とは何か』『料理と利他』などで刺激的な議論を展開する筆者、待望の単著!今、「他者と共にあること」を問うすべての人へ。

 

「日本語は日本人のものだ」と線をひこうとする人たちはいるけど、その人だってインドに行けばその人の中にインドの言葉がとどまるだろうし、もっと自由さを楽しめればいいな。

 

そう考えると、自分のなかに何かがとどまっているのは“偶然”でしかない。別の何かであった可能性はたくさんある。だから人の偶然性を許したり愛したりできたらいいな。対話のわかりえなさを、どうしたらいいんだろう?っていうのが課題。相手をわかりすぎるのも怖いし……

 

“わからなさ”を愛でてもいい。「わからないと怖い」とか「ダメ」って思わないで、「わからないことが楽しい」って誰でも思ればいいのに。小説を読むと自分がもっとわからなくなって、でもそれが楽しい……みたいなことが、もっと安心して味わえる余裕があればいいのにな。「わからなくてもいい」の安心感は必要だけど「わかろう」ともがくのは大切。「わかりたいけど、わからなくもある」のふくよかさ。

 

 

 

 

わからないけどわかろうとするのが哲学。たとえば哲学対話で「カワイイとは何か?」と問いを立てると、「簡単じゃん」「ググればいいじゃん」と言うんだけど、実際考えてみると簡単じゃなかったりする。「わかろうとしあいたい」というのが哲学対話を突き動かすもの。トレーニングに近いしレッスンも必要で、その機会をつくりたい。

 

わかりあうより思いあった方が大事。「わかりたい」って、相手を求めてるってこと。「思いたい」はギブ。見返りを求めずに思いあうことが大事。

 

Twitterは、自分の言葉に対してアクションがあることに麻痺しちゃった。本当は10年〜20年後もわかりあえないかもしれない……くらいのスパンでやらなきゃいけないことなのに、ちょっとツイートしたことが「わかる〜」みたいに言われると、わかってもらいたい気持ちが麻痺して、いいねされやすいものを書いちゃうのも嫌だった。

 

俺たちは俺たちの言語でしか考えていなくて、“言葉にならない言葉”では考えてない。「ピンときた」とか、体でつかまえることもわからなくなってる。

 

誰でも赤ちゃんのときは言葉を知らない。“言葉以前の世界”の圧倒的なゆたかさをひきずりながら、言葉を知ってしまった自分がそれをどうつかまえていくか。哲学と詩を読むことが日本に足りないのかもしれない……

 

「D radio」を聴いて

 

自分は本も好きだし考えることも好きで、「いわゆる現代病とは違う」って思いたかった。

 

でも実際は、疑問を感じたときに「ググる」で終わらせたりTwitterもいいね目当てで書いたりしてて、立派な現代病だということがわかった。

 

このラジオを聴いて、「何にも囚われずに自由を追い求めていたい理想の自分」と「テクノロジーで便利になった社会の歯車になっている現実の自分」とのギャップが可視化された気がして、いろいろショックだった……

 

とともに、3人のように許容範囲を広く持って対話を諦めない大人がいることに安心したし、そういう大人になりたいと思った。

 

私たち以降の世代に足りないものは、安心かもしれない。今の小学生は、習いごとをいっぱいやっていてすごい忙しいらしい。もちろん将来のためを思っての投資だと思うけど、裏を返せば「失敗しないでね」っていう親からのメッセージとも受け取れるんじゃないだろうか。

 

そうすると、「正解」にはめることでしか安心感を得られなくなる。自分がやったことに対して、「これって間違ってないかな?」と確認する作業をひたすら“こなす”ことになる。

 

対話は難しいし、諦めたくなる。でも諦めないのが人間らしい営みだと思う。対話も効率化して「ムダ」や「不正解」を省いていったら、それはもう人間ではなく機械だ。限りなく機械に近づいている自覚があるからこそ、人間らしい営みの楽しさを再発見したいと思った。