朝起きてツイッターをひらくと、夫婦のライターユニット「ばぃちぃ」の記事が大炎上していたので、思うことを記します。
もくじ
cakesのホームレス記事はなぜ炎上した?
cakes(ケイクス)は、noteなどのサービスを展開する会社が運営しているWEBサイト。
今回炎上した、ライターユニット・ばぃちぃのホームレス記事は、cakesの新連載として掲載されています。
記事の内容は、ホームレスに興味関心をもつ夫婦が、ホームレスの住む場所に足を踏み入れて取材をするというもの。
この記事が炎上した要因を大きく3つに分けて考えてみます。
① ホームレスが抱える社会問題を軽視している
ライターユニット・ばぃちぃは、自分の生活とは乖離した生活を“選択している”ホームレスに興味をもち、取材を始めたのだそう。
誰もが行動を選択できる世の中ではないので、「“選択している”という言い回しに引っかかる」という読者の声がありました。
再就職が難しい年齢とか未経験者には仕事がないとかで、路頭に迷う以外に生きる術がない人もいるし、コロナショックで失業者が増えていて、若い世代でも家を失っている人もいる。明日は我が身で、他人ごとでもなんでもないです。
もちろん夫妻も承知のうえで取材をしていると思うけど、ホームレスの存在もひとつの社会問題で、仕事・住居の確保など本来やるべき社会福祉が後回しにされている実態があります。
“自分とは乖離した生活をする不思議な存在”という扱い方に違和感を持つ人は多いでしょう。
② ホームレスの人権に配慮しない内容
ばぃちぃ夫妻は最初、どうやって彼らを見つければいいのかをネットでググったり、「どんな感じで話しかければ自然なのか?」の情報をとりにいったそう。
そして、検索でひっかかったホームレスの住む河川敷に、ホームレスが喜ぶであろう食べものとビールを持って行ったのだとか。まるで「宇宙人と交信する方法」「カッパの好物はキューリ」みたいな情報の取り方です。
ホームレスも同じ人間なのに、上流階級の視点からモノを書いているようにも受け取れる文章が、非難されてしまっている原因のひとつだと思います。
③ 連載しちゃったcakes
「ばぃちぃ夫妻の記事を優秀賞に選び、連載まで持たせちゃったcakesに問題がある」という意見も。
ばぃちぃ夫妻は、純粋な興味関心から取材をして自由な感性でモノを書いているだけ。
これを優秀賞に選び連載を持たせて、堂々と世に出しちゃった「cakes編集部」に問題がある。
炎上のおかげでPV数伸びて喜んでいるのだろうか。
もうnote退会する!
このような意見がありました。たしかにセンシティブなテーマなので、いろいろな読者がいることを想定した内容にするべきです。
最後に記事内容の調整をするのは編集者しかいないので、世にでる記事の内容はすべて編集者にかかっています。
編集者はサイトのコンセプトやPV数を大切にしつつ、視点や言いまわしに偏りがないかを客観視するべきですね・・(自戒も込めて)
ホームレス記事が炎上して思ったこと
私は正直、ホームレスの住むところにオニギリを持っていって3年も取材を続ける、ばぃちぃ夫妻の行動力に感服します。
私にはできません。
冬の寒い日に古くなったダンボールにくるまるホームレスをみて、「寒くないですか?」とお味噌汁とかカイロとかを渡してあげられたらどれだけいいだろう・・と妄想するだけ。
実際のところ、「声をかけたことが癇に障って、怒鳴られたりしたらどうしよう」とひるむのが常です。
“同じ人間だから”とわかっていながら、「癇に障って怒鳴るかもしれない人」と決めつけているのは、まぎれもなく私です。
炎上した原因について頭では理解して「もっとこうしたらいいのでは?」と思いつつも、実際に行動に移せないのが私です。
それに、興味関心に行動が伴うのはステキなことだと思います。
今回の炎上記事の問題点は、「倫理観のズレ」と「誤解の生まれやすい文章の組み立て方」だけなのかもしれません。
ホームレス×現代アート記事への違和感
問題の記事とは別に、ばぃちぃ夫妻のnoteでこんな記事を見つけました。
「ホームレスと現代アート “サイトスペシフィック・アート偏”」(編)
美術大学を卒業しているばぃちぃ夫妻による、「現代アート」と「ホームレスの生活スキル」を掛け合わせた考察記事です。
リード文からしてざっくりしていますが、いちアートファンとしてはぜひ知りたい考察だったので読んでみました。
「サイトスペシフィック・アート」とは
ばぃちぃ夫妻の記事に書かれた「サイトスペシフィック・アート」の概要はこんな感じ。
たとえばイギリスを拠点とする匿名のアーティスト・バンクシーなどが代表的で、制作された場所を離れてしまうと作品のメッセージ性がなくなってしまうことが「サイトスペシフィック・アート」の特徴なのだそう。
どうやら農家が捨てた野菜などを利用して畑を耕すホームレスのおじさんがいるらしく、「ホームレスの生活スキル=この場所ならではのアート=サイトスペシフィック・アート」と定義を重ねています。(“生活スキル”って言い方もなんか嫌ですが・・)
「バンクシー=ホームレスの生活スキル」への違和感
この文章を読んでまず思ったことは、「バンクシー」と「ホームレスの生活スキル」を同じ定義でくくるのはおかしい!!!
「自分は社会に一石を投じるために活動しているアーティストです」と自ら公言するバンクシーと、第三者に「この人(アーティストではない人)の生きざまってアートですよ」と言われるホームレスとは、わけがちがう。
バンクシーは明確に社会批評しているアーティストで、オークションで売れた絵をその場でシュレッダーにかけるなど、意図的に“この場所ならではのアート”をつくっています。
一方でホームレスのおじさんは、ただ生活を営んでいるだけ。
ばぃちぃ夫妻の感性が「これはアートだ!」って叫んだとしても、おじさんが「政治や文化などの背景を踏まえつつ作品を作る考え方」をしているわけでもなんでもなく意図せずに生まれたアートだから、バンクシーのアートとはまったくベツモノだと思います。
第三者が「アート」だと言い張るのって危うくないか?
心のなかで「今めっちゃアーティスティックだな!」って思う一瞬は誰にでもあるし、受け取り方はそれぞれ自由だけど、「これってアートだよね!」って誰かが決めつけて発表するのは結構危ういと思っています。
もし私がベランダで家庭菜園していて、あまりよく知らない人がふらっと遊びにきて「へぇ〜!家で野菜育てているんですね。これって今の時期しか食べられないですよね。アートじゃないですか?」って言われたら、「ん?アートじゃないよ?趣味だし節約だよ?生きる知恵だよ?」って返すし。
もしかしたら、毎日丁寧に野菜の面倒を見て、新しい葉っぱが伸びてきて、その葉っぱが朝陽に照らされてキラキラしていたら、「あぁ・・!アートみたい!アートみたいじゃないですか?見てください!」って誰かに教えるかもしれないけど。
だから私のなかでは、野菜づくりをしているホームレスのおじさんが「アートだろ!」っていうのは自然なことだけど、第三者のばぃちぃ夫妻が「このおじさんのやってることって、アートじゃない?」っていうのは不自然なことなんです。
ホームレスのおじさんが、アートスポットとして取り上げられることを喜んでいるなら話は別ですが・・
美術大学まで出て、薄っすい考察すなよ!
一期一会のアートであるという事実のみの共通点で「サイトスペシフィック・アート」と定義づけているなら、正直浅い考察に思います。
せっかくアーティストを引き合いに出すのなら、作品の具体例と照らし合わせたり、どんなところにアートを感じたのかだったり、もっと掘り下げた考察を読みたかった。(その人ならではのアートの見方が一番興味深いのに!!!)
正直「現代アートをしっかり学んでも、この程度の考察しかできない人もいるのか・・」とさめる自分がいました。
私が多くを求めすぎなのかもしれないけど・・
ホームレス記事の炎上で学んだこと
今回のホームレス記事の炎上で私が学んだことは、「倫理観のズレは自分では気づけない」ということ。
最近フェミニストが「男性芸能人が女芸人に下ネタ言うのは(体を張った芸をやらせるなども)おかしい!」って発信しているのをみたけど、正直ピンときませんでした。
下ネタはたしかに笑えないけど、「女芸人が心の底からそれを面白いと思ってやっているならそれが芸風なのでは?」と思ったし、芸人さんのやりたいことがどんどん制限されてしまったら“多様性とは?”の問いに戻ってしまうような気もしました。
でもそれを許容しつづけると、男性優位の悪しき風潮がいつまでたってもなくならないし、声をあげて社会を変えていこうと動くフェミニストの意志が正しいようにも思います。
そんなふうに問題の捉え方にもグラデーションがあって、いつも絶対に正しい判断をすることは難しいと思ってます。
自分の倫理観に自信がある人はどれくらいいるんだろう・・?
倫理観を試される発信者は、やりたいこと・発信したい意見を提示しながらも、発信した先にいる人を想像することが大事だと思いました。