Twitterで見つけた「モヤる編集者」のはなし

3ヶ月に1回くらい、やることなすことなにもかも上手くいかず、自暴自棄・自己嫌悪におちいる最悪な日が訪れる。それが今日だった。

 

別に体調がすぐれないわけでもなく、食欲もあるわけだから、物理的に不幸のど真ん中にいる人に比べれば、私の自己嫌悪などミジンコのようなものだ。誰もみていない。

 

でもこういうときに感じる違和感こそ、書くことで昇華したいと思うし、書くことで整理したいから書く。(ブチギレているので、閲覧注意)

 

 

Twitterにて「いい子ちゃん」な編集者にモヤる

 

日本人の人口は1億人以上いると聞いているが、私のTwitterのフォロワーは60人くらいしかいない。(私にしては多いと思っているけど)仕事のこととか有益情報は、ほとんどつぶやいてない。

 

リアルの人間関係と繋がらないように、なるべくメディア絡みの固有名詞は控えてるし、こんな恥ずかしいブログがバレるなんて怖いから、見つかりたくないと思っている。(でも同じような思想の人間やブロガーと繋がりたい欲はある)

 

そんな数少ないフォロワーのなかで、相互フォローしていた(もう過去形)とある編集者が、このような旨のツイートをしていた。

 

「身内のこと、自分のジェンダーのことなど、センシティブな内容の記事を堂々と書く奴は自己顕示欲の塊なんか?自分は自分に関わるセンシティブな部分を絶対に公にしないけどな・・」

 

(こんなに言葉は汚くない、もっとお上品)

 

勝手に記事に登場させられて、巻き込み事故にあった身内のことを考えての「良識ツイート」かもしれないけど、ただの“いい子ちゃん”だとも思えず、このツイートを見た瞬間に同じ編集者として、サーッと冷めてしまう感覚があった。

 

この編集者とちゃんとやりとりをしたこともなければ、すべてのツイートや活動を見ているわけでもないから、表面的な一部分だけの情報にすぎない。

 

だからこの編集者の本質はわからないけど、この一投稿だけを見てなぜここまでモヤっているのかは自分で知っておきたいので書きながら探ってみる。

 

編集者は大きく2種類に分かれる

 

編集者には大きく2種類いると思う。「第三者視点の客観的な文章を好む人」「執筆者の血が通っている文章を好む人」

 

好みだけじゃなく、メディアのトンマナとか企画内容にもよる。たとえばHOW TO記事だったら、第三者視点で書いてあるほうが読みやすい。体験・インタビュー記事だったら、実際に体験した人の経験や持論がしっかりある方が面白い。

 

問題のツイートをした編集者が、どのような記事に携わっているのかわからないけど、そもそも後者の記事を全否定しているように思えて不快だった。

 

物書きが文章で昇華して何が悪い

 

私はたとえSEO記事であっても、血の通った文章にチャレンジしているメディアやライターの方が好きだ。

 

ネガティブに捉えられそうな内容(家族・ジェンダーなどの自分にまつわるコンプレックス)の文章を、問題のツイートをした編集者が「自己顕示欲を満たすために書いている」と思っているなら、それは絶対ちがう。(中にはそういう人もいるかもしれないけど)

 

表現にチャレンジして、自分にまとわりつく負の部分をなんとか昇華しようとする「もがき」の行為なんだと思う。

 

私が「すべらない話」で一番心に残っている話は、大溝清人の「しげるちゃん」だ。ホームレスの身内が撮影現場にたまたま乱入してきて、何も知らないスタッフからムゲに扱われてしまうという不幸話だ。こんなに悲しくて面白い話を聞いたのは初めてで、衝撃的だった。

 

彼は芸人だから「笑い」で昇華する。アーティストは「曲やアート」で、物書きは「文章」で昇華する。とても衝動的でシンプルな行為だと思う。

 

太宰治に同じことが言える?

 

人間は誰もが、もがく。そんなとき、自分と同じようにもがいている人の意見や感情を知ることで、救われることがある。

 

私は、太宰治の「人間失格」やドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」を読んで衝撃を受けた。

 

地球上で私だけが悩んでいると思っていた問題は、私が生まれるずっと前から執筆テーマとされていて、しかも今なお不動の人気を誇るのだ。

 

なぜ不動の人気なのか?

 

人間の悩みや負の感情は「普遍的なテーマだから」である。

 

これらは物語だけど、太宰治はエッセイも、とにかく面白い。面白いといっても、全然ポジティブな文章ではない。自信がなく陰鬱な負の感情が、かゆいところに手が届くように的確で、言い回しなどもいちいち面白いし、なぜか可愛くもある。

 

繰り返しになるが、問題のツイートをした編集者がどんな記事に携わっているか、私は知らない。でもたとえば、太宰治の書籍に携わったときにも同じことを思うだろうか。

 

それとも太宰治は「伝説の大作家先生」だから別格であり、現代を生きる、どこにでも転がっているようなWEBライターは自分語りする資格がないのだろうか。

 

というかそもそも、思いのまま表現にチャレンジするライターに向かって、「お前は太宰じゃないんだ、特別じゃないんだから、さっさと目を覚まして、第三者視点の記事だけを書いて黙って提出しろ」って思ってる編集者、すごい嫌な感じなんですけど・・?!

 

金子みすから、読み直してくれ。

 

文章で自己表現にチャレンジする道があること、表現の方法は一つではないことを、知った方がいいと思う。

 

複雑だからこそ、編集力が試される

 

ずっとツルッとキレイな表面だけを見せて生きていければいいけど、人間は裏側のザラザラした面を必ず持ち合わせていて、そこに魅力を感じる性質・タイミングもある。

 

ツルツルとザラザラは表裏一体で、切り離せるものじゃない。どれだけうまく隠しても、誰にでも存在するし、当てはまる。

 

私も勉強中の身だけど、編集者って多角的にモノゴトを見れなきゃいけないんじゃないかと思う。

 

わかりにくくて複雑なものを組み立てなおして、わかりやすく見せることが編集者のお仕事なのではないだろうか。少なくとも、私が尊敬する編集者はそういう仕事をしている。

 

そして、一番複雑なのは、人間であると思う。自分でも自分がわからないくらいに、人間は複雑だ。だから、人間の複雑な感情をじっくり見つめて考える時間は必要なのだ。

 

誰のために記事を作っているのか。「人間が読むため」である。

 

人間が読む文章に対して「人間の本質の解明」を諦めたら、それこそ表面的にモノゴトを組み立てるだけの自己満である。ラッセンのパズルを組み立てているのと同じだ。すでに形になっているピースを、ただ型にはめるだけの単純作業。

 

(個人的にはSEO・リスティング広告なども「人間の行動心理」に基づく機械的なマーケティングに過ぎず、深層心理までは動かせないと思っている。TikTokで意味不明な音楽がバズっているような感じで、何がヒットするかマーケティングでは読みきれない)

 

その人(文章)からにじみ出る「コンプレックス」や「違和感」こそ、カタチになったときに誰かの心を動かすことがあると思う。

 

ハッピーな人がつくる作品はやっぱりハッピーだしそれも素晴らしいけど、心に残るのはいつも違和感のある方だし、人間がものづくりをする活力の源でもあるのではないだろうか。

 

ていうか普通に、リアルしか面白くない

 

私は、アイデアが斬新なだけで本人の内側が見えにくい「アンディーウォーホル」の作品を面白いと思えなくて、ポップアート〜現代アートまでを、なかなか楽しめずにいた。(いまは現代アートも少し楽しくなってきた)

 

文章でも絵でも曲でも映画でも、なんでもそうだけど、作り手が実際に感じたことが反映されている(またはエッセンスとなっている)リアルなモノしか面白いと思えない。

 

たとえばビリーアイリッシュがインタビューで、黒髪一本縛りで無印良品みたいな服きて、「バッドガイって、なんかかっこいいなと思って作ってみました〜」って言ってたら、めっちゃ冷める。

 

持論やマイナス面を一切語らない文章って、人間らしくないし、誰かの言葉を羅列しているだけのように感じて、まさに“無印良品バッドガイ現象”に見える。

 

編集者は「令和の太宰治」を見過ごすなかれ

 

文章で自己表現にチャレンジする人は、二次創作で溢れかえるWEB記事に面白みを感じていないのだと思う。(限界すら感じているかも)

 

なにか普遍的だけど斬新な発想をカタチにして自分を守るとともに、それを読んだ人と深いところで繋がりたいと思っているのではないだろうか。

 

問題ツイートの編集者みたいな「論理的で良識的な考え方をもつ編集者」を必要としているメディアもあるかもしれないけど。

 

反対の思想(感情的・常識はずれ)を持つライターに、はなから目を向けずに切り捨てているなんて、もったいないと思う。

 

だって、令和の太宰治を見過ごすことになるじゃないか!!!

 

当たり障りのないハッピーな文章より、内側からにじみ出る意地の悪い文章の方が、絶対未来都市でバズるし、未来人に気づきを与えるから!!!

 

夜な夜なそんなことを思い、私は自分を律するのであった。