“多様性”をぶった斬る朝井リョウの問題作『正欲』読んだ

「問題作か傑作か?」というコピーからして、やらかした感(?)満載な朝井リョウさんの小説『正欲』を読みましたので、あらすじや感想を残します。

 

ネタバレ含みます。すでに読み終わった方や、読むつもりがないけど内容が気になっている方向けの、一意見としての考察です。ぜひ読んでみてください!

 

 

『正欲』のざっくりなあらすじ

 

『正欲』のざっくりなあらすじ

 

とある町で、児童ポルノ所持で3人の成人男性が捕まる。倫理観に反したこのニュースは、またたくまに炎上。加害者は未成年の子どもに性的な感情を抱く“異常者”として、大バッシングを浴びることとなる。

 

しかし警察の取調べで、加害者もその妻も、揃いも揃ってなにかに諦観したような素振りを示す。実は、加害者のうち2人(と妻)の興奮材料は、男児ではなく「水」だったのだ。--

 

『正欲』のおもな登場人物

 

『正欲』に登場するおもな人物の相関図がこちらです。

 

『正欲』に登場するおもな人物の相関図

 

それぞれの人物像や抱えている問題を、ざっくりご紹介します。

 

検事・寺井啓喜

小学生の息子がいる警察官。息子が不登校のうえに「YouTuberになる」と言っていることに呆れつつも、息子をかばいながら他の男に撮影を手伝ってもらう妻に、若干焦りを感じている。

 

営業マン・佐々木佳道

事件の容疑者で、水フェチ。寺井の息子のYouTubeで「水遊び」の動画を見つける。

 

寝具店スタッフ・桐生夏月

水フェチであることを人に言えずに孤独な日々を過ごして、寺井の息子の動画を密かに楽しみにしている。学生時代に佐々木と水フェチを共有した思い出があり、同級生のお通夜で再会したのち「生き延びるために、手を組みませんか?」と、佐々木と形式上の結婚する。

 

イケメン大学生・諸橋大也

事件の容疑者で、水フェチ。寺井の息子のYouTubeに「水遊びして」とコメントをした張本人。のちに佐々木とSNSでつながり、オフ会で事件を起こす。

 

大学生・神戸八重子

大也に片想いしている、容姿や家族にコンプレックスをかかえた優等生。文化祭では「多様性」をテーマにした企画の実行委員となり、大也に近づく。女性に無関心な大也に「同性愛者なのでは?」と疑念をいだき、少し心配をしている。そして大也は、そんな八重子のお節介を鬱陶しく感じている。

 

『正欲』であらわになった「多様性」のショッキングな真実2つ

 

『正欲』であらわになった「多様性」のショッキングな真実2つ

 

作者の朝井リョウさんが、とあるラジオで「小説を書いてるんじゃなくて水を差してる」と言っていた通り、『正欲』はまさに、一人歩きしている「多様性」という言葉に水を差している小説です。

 

「多様性」の解釈を見つめなおす、いいキッカケになるとともに、ショッキングな発見もありました。この本で知った「多様性」という言葉の本当の意味を2つピックアップしてみました。

 

① 「健常者が異常者を受け入れる」→無自覚な上から目線

 

① 「健常者が異常者を受け入れる」→無自覚な上から目線

 

SDGsなどで言われている「多様性」は、社会で置き去りになりやすいLGBTQや障害者などの人々を受けいれようという解釈だけど、「そもそも、“受け入れる”ってその上から目線はなに?」って話です。

 

結局のところ、恋愛対象が異性で五体満足な健常者が“正常”で、恋愛対象が同性で体に障害のある人は“異常”というのが大前提になっています。

 

自称“正常”の人が“異常”な人を気遣うありがた迷惑が、無自覚に当事者を苦しめていることもあるのではないか?…『正欲』には、そんなメッセージがあります。

 

私も子どもの頃に五体不満足の乙武さんの本を読んで「かわいそうだな」と思っていたけど、乙武さんは賢いし運動神経もいいしモテるし、かわいそうなのは私の方でした。

 

そんなふうに勝手に誰かのことを「私より下だ」と決めつけて、安心材料として「多様性」を使ってしまってしまっていないか?…改めて見直さないといけないと思いました。

 

② 犯罪の基準が“正常”の人になっている

 

② 犯罪の基準が“正常”の人になっている

 

児童ポルノ所持で捕まった成人男性たち。しかしこの事件が複雑なのは、性的対象が男児ではないということです。

 

「すべて人間の性対象は人間だ」という前提で法律が決められているから、「水フェチ」の人たちはどれだけ公共の場で興奮していようと、法律から逃げられます。

 

水フェチにかぎらず、世の中には想像もつかないようなたくさんのフェチが存在するそう。それを一つひとつすべて取り締まっていったら、犯罪の基準をどこに合わせたらいいのか、もうよくわからなくなってしまいます。

 

つまり、今取り締まられている“犯罪”は、一部の人の“あたりまえの倫理観”しか基準にされていないということ。

 

「常識って結構くだらないな。誰が決めたんだろう…」「私の思う“正しいこと”と、お偉いさん方がやっている“正しいこと”がずれている気がする…」そんなことを日頃から考えてきた私としては、誰かの“あたりまえ”で決まった約束事ほど不気味なものはないと思います。(ひねくれててすみません)

 

とはいえ、ルールを決めずにそれぞれの正義にのっとって生きていくと、無法地帯な社会になってしまうし、「それはそれで生きづらいのかも…」と思ったりもします。

 

特に一般論の固定概念が十分に刷り込まれている社会の中では、この問題の根本的な解決を目指すことは難しそう。でも、言われてみれば「ずっとなんだこの茶番は…」ってじわじわ疑問が膨らんでくような視点です。

 

『正欲』は、“正常”から外れた人しか気づけない世界を描いた本

 

『正欲』は、“正常”から外れた人しか気づけない世界を描いた本

 

私は性善説の考え方が強すぎるのか比較的「多様性」を重んじて生きていて、「この世にいる全員、差別とか生きづらさとかなく、思いのままに快適に過ごせたらいいな」と思ってます。

 

でも、やっていることはまさに八重子と一緒だったのかもしれないと思って、少し落ち込みました。自分はよかれと思ってやっていることで、無意識のうちに傷ついてる人がいるかもしれないということです。

 

正直、重い十字架を背負いながら生きる登場人物の秘密を共有されたところで、「水フェチ?だから何?」とは思うけど…タモリ倶楽部の見過ぎかもしれないし、コンプレックスを抱く当人からすればその反応すら嫌なのかもしれません。

 

たとえば私も、アトピーの肌を「え〜〜全然アトピーだってわからなかった〜〜」と言われると、その人に悪気がないのはわかっていても「事実としてアトピーだし、子供の頃からすごく手当を頑張ってきたからな…あなたは肌トラブルないから気楽にそういう感想を言えていいよね」としか思えません。(ひねくれに拍車がかかっている)

 

個人的なことは、あくまでもその個人にしかわかりえない、個人的なことなのです。

 

だから本来、個人的な秘密を打ち明けられた時の反応は「へえ〜そうなんだ、いいじゃん」の一択なはず。

 

じゃあ、それができないのはなぜか?世間の目とか刷り込まれた常識のせいで“自分は正常である”アピールをしたいがために、そうできないだけなのです。

 

結局、正常の基準は世間なのです。

 

とはいえ「多様性」に関して言えば、“正常”な人の上から目線な受け入れ体制ができてきたから、徐々に社会の空気が変わってきたり制度がととのってきたりしているのも事実だと思います。

 

簡単には動かない世間の共通ルールとしての「多様性」と、動物の本能的に人間に備わっている「多様性」、どうやって折り合いをつけていくべきなのか…この本を読んで、なんだか振り出しに戻ってしまったような気がしました。

 

ふわっと内容は知っていたけどこの本を読む前に、自分なりに多様性について考えたことをまとめた記事はこちら。

→ ピカソの絵に抗議したフェミニスト、アートわからずや説

 

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