ピカソの絵に抗議したフェミニスト、アートわからずや説

美術手帖で「ピカソによる女性の扱いに抗議。スペインの美術教授らがピカソ美術館でサイレントデモ」という記事が公開されました。

 

それについてアートファンとして少し悶々としたので、思ったことを記します!
 
 


 
 

フェミニストがピカソに抗議デモ

 

フェミニストがピカソに抗議デモ

 

ピカソが関係をもった女性芸術家が、ピカソに酷い扱いを受けたうえに夢を諦めざるを得ないように仕向けられたとして、バルセロナにある「ピカソ美術館」で抗議デモが行われた。

 

具体的にはこんなデモだったそう。

 

バルセロナの美術学校エスコーラ・マッサーナで「アートとフェミニズム」コースを教えているロピスが企画した今回のデモでは、参加者たちが「Picasso, women abuser(ピカソ、女性虐待者)」「Picasso, la sombra de Dora Maar(ピカソ、ドラ・マールの影)」と書かれたTシャツを着て美術館を訪ねた。美術手帖

 

わかりやすく女性蔑視している人気アーティストを抗議の対象にすることで、世界中にインパクトを残すことが目的なのではないでしょうか。

 

ピカソを「女の敵」で片付けるか否か

 

ピカソを「女の敵」で片付けるか否か

 

最近いわれるようになった「多様性」は、社会のルールになりつつあるけども、これは主に「人権を守る」ことを目的につくられていると認識してる。

 

(たとえばLGBTQが理由で面接に落とされるんじゃなく、普通に働ける社会を目指すなど。)

 

だからフェミニストが「女性の人権を守る」「男女平等を目指す」ために、女性を蔑んで自分だけ成功したピカソに抗議するのも理解できる。

 

(故人で今更感はあるし、しくみを抜本から変えたいなら美術館じゃなく政治にはたらきかけた方が早いとも思うけど)

 

このことで「ピカソは女の敵だ!」と思った人もいるかもしれないけど、私はそんなに単純なことではないと思っている。

 

ピカソは「女にだらしない多作画家」

 

ピカソは「女にだらしない多作画家」

 

ピカソがどんな画家であり人間だったか、一言でいえば「女にだらしない多作画家」だ。

 

女性画家の出世の邪魔をしたり、人権に配慮しない行動をしたりする、はっきりいって、倫理的にアウトな人間だ。

 

この時点で「ピカソのアートを見たくもない」という人が現れて当然。拒否反応は自然なことだと思う。

 

じゃあ、ピカソの絵に惹かれる人がいるのはなぜなのか?

 

それは「女にどうしようもなくだらしない人」が描く絵が、途方もなく「人間のリアル」だからだと考える。

 

女性関係はピカソにとって「アートの養分」なのだ。

 

女性関係はピカソにとって「アートの養分」なのだ。

 

前に「アイドルヲタクのホモソ問題」についても書いたけど、成熟していない未成年女子をかまう成人男性の暴力性については本当に闇が深いと思っている。

 

だし、自分が小学生のときにも「裸みせたがる成人男性」が流行っていたから(?)「今思えば…」にはなるけど、当事者として思うところもある。

 

それと同時に大人になって思うのは、成人したからといって「別に思っていたような大人になれてない」とも思う。

 

人間として体は成熟したし仕事とかその他の人間関係をとおして「一般常識」というものが少しずつ身についてきてはいる。(と思いたい)

 

でも、仕事をしてないとき、家でダラダラ食べたいものを食べてアイドルを観ている自分は、子どものときにポケモンゲームやってた自分と少しも変わってない。

 

家でダラダラする人

 

何が言いたいかというと、ピカソは作りたいときに作りたいものを作って好きなときに好きな人と過ごす、「子どもみたいに本能で動く人」なのだ。

 

だから大人のつくった「常識」からは外れているけど誰にでも心当たりのある、「ものごとの本質的な解釈」「芸術に対してピュアな視点」を持てるのだと思う。

 

ピカソに限らず、未成年に手を出すゴーギャンや、愛しい女性に服を脱ぎ着させた絵を残すゴヤ、裸婦に対して「ただ見たものを描いただけ」と言い張るマネなど…

 

倫理観がバグって作品に現れちゃってるヤバいアーティストたち。

 

彼らは、人間が隠したがる「あさましさ」「変態性」といった本来の性質をあますことなく正直に描ききるから、リアルだし心に響くし面白い作品として評価されている。

 

だから、アーティストに関しては、必ずしも共通の倫理観や社会のルールに従った作品である必要はないと思う。

 

というかむしろ、アートは社会のルールと反してるから心がザワつくし、人間の複雑さを映す鏡のようなものに思えるのだと思う。

 

それでいうとアイドルは「アーティスト」とは違って「会社員」と同じだから、少女たちはちゃんと社会のルールの中で守られていくべきものだと思ってる。

 

SDGsとアーティストがかかげる「多様性」の違い

 

SDGsとアーティストがかかげる「多様性」の違い

 

多様性についてもっというと、SDGsがかかげている目標としての多様性と、アーティストが表現しようとしている多様性は、似ているけどかなり違う気もする。

 

SDGsが目指す多様性の目的は、「ルールをつくる」ことにある。

 

これは、誰もが共通して認識できるルールのことであって、法律などのしくみで解決していけることである。

 

誰も置いてきぼりにしない「平等な社会」を目指すために、絶対に必要なルールである。

 

一方でアートの目的は「ルールをやぶる」ことにあると考える。

 

自分だけのルールをつらぬいた結果、見え方として多様になっているということ。はなから多様性を意識したものではないし、共通認識を求めてない。

 

「刺さらない人には一切刺さらないけど、刺さる人には一生刺さる」という面白さがあって、「刺さらない人がいて当然だ」という感覚もある。お客さんの受け取り方こそが多様だからだ。

 

多様性の図

 

似ているけどこの2つを混在させるのは結構危険なことだと思ったりする。

 

ピカソの絵に対するデモは、ピカソに魅せられている人からすると「アーティストに対して敬意を感じない行動」でもある。それこそアーティストの表現の多様さを認めていないように感じて本末転倒だ。

 

ルールはあとから決めたのであって、どうしようもなく複雑で自由なのが本来の人間の姿・本質だから

 

人命にかかわること以外は、ルールでしばりすぎると「あれもこれもダメ」で選択肢が狭まる。それをアートにも求めだしたら、同じルールの中でしか生み出せない「つまらない作品」ばかりの世の中になる。

 

村上隆さんの萌絵っぽいアートがフェミニストにたたかれてたけど、わたしは脳内をそのまま作品に投影するアーティストを尊敬するし、(自分には絶対できないし、そもそも構想を持てない)ヤバい人がアートをやってくれてた方が、つまらない人がアートをやるよりもよっぽど誰かの心に響くと思う。

 

というか倫理観にヤバい人は多分、「職業・アーティストにしかなれない」ともいうかもしれない。

 

そうしないと、どこにも昇華する場所がなくて、人間としてどうなってしまうかわからない。倫理観バグってる人が、真面目にサラリーマンなんてできるはずないのだ。

 

アーティストは「型やぶり」にチャレンジし続けてくれ

 

アーティストは「型やぶり」にチャレンジし続けてくれ

 

もちろん、女性蔑視してる男性は許されてはいけないし、私もルールを整えるとか常識のアップデートは必要だと思う。(まだまだ知らないことも多いしこういうニュースで教えてくれるのはありがたい)

 

だけどアートに関しては「アーティストは心のままにはみだしまくって、あとは受け手にすべてを委ねてしまえ!」とも思ったりもする。

 

だしそれを期待して美術館に足を運ぶことが多い。ずっと面白くあってほしい。

 

そんなことを思いました。